国家の責任、国民の責任

April 21, 2004  [ 政治一般 ]

イラクでの人質事件を契機に、対国家的な視点で国民の自己責任を議論する風潮が生まれました。この点についてひとこと。

1.国家の役割

まず国家に、国民の生命・財産・自由を守る絶対的な義務があることを忘れてはいけません。中世以前の夜警団、また更に古いところでは先史的な集落などにもその起源をみることのできる「国家」という存在は、そもそも、そこに帰属する人間(国民)を守ることを最大の目的としています。国家が国民を守る義務を放棄することは、その存在根拠を否定することに他なりません。

「自分の判断で危険な地域に赴く国民がどうなろうと国家は無関係だ」

そんな発言をすること自体、国家には許されていないのです。


2.国民全体の利益

先刻「自己責任」という言葉を連発していた政治家たちも、恐らく上記のような意味で発言しているわけではないでしょう。彼らが言いたいのは恐らくこういうことです。

「国家の助言を聞かずに危険な地域に赴いた場合、あなたの安全を保証できません」

どんなに無鉄砲な国民に対しても、国家はその生命を守るためできる限りの努力はしなければなりません。しかし国家は他方で、その無鉄砲な国民のみならず、他の国民を守る義務も負っていますから、1人を救うために他の大勢の国民に過大な不利益を強いるわけにもいかないのです。こうした意識は、危険に直面している国民(救助対象者)に重大な過失がある場合には特に強く働きます。

たとえば、渡航自粛が呼びかけられている戦闘地域に無理やり立ち入った人間1人を救うために、救助隊員の命を犠牲にすることは許されません。また、今回のイラクの例で考えると、もし犯行グループの要求通りに自衛隊を撤退させていたとしたら、多くの国民は「更なる誘拐の頻発」という事態に怯えなければならなかったでしょうし、特に海外で生活している人などは精神的に非常に窮屈な思いを強いられたでしょう。また北朝鮮問題をはじめとする多くの外交課題は頓挫し、日本経済も打撃を受けたはずです。これは避けなければなりませんでした。

自らの意思で危険地域に立ち入った人間がいざ危機に瀕した場合、国家への要求は極めて限定的な範囲でしか認められない。その意味で「自己責任」という言葉が使われる限り、私も賛成です。


3.人質被害者への非難

しかし、今回のように人質被害者へのバッシングが続く事態には否定的な感覚を覚えます。彼らに、そのような非難を受けるまでの「責任」があるとは思えないからです。

この世界にはいろいろな人がいます。政府が行くなと言っても、そこへ行きたいと考える人はいるでしょう。その考え自体を、他人が非難すべきではありません。

もちろん、彼らの行動により国家や他の国民に多大な不利益が及ぶ危険もあるわけですが、それを最低限に押さえるのは国家の役割です。人質となった国民の過失度合い、救出にかかる人的、物的、政治的コスト、そしてなにより他の国民の安全、を較量した上でそれが最善の策であると判断したならば、人質の見殺しを選択することもときに国家の責務となります。

その選択を受け入れなければならない、という意味で一人一人の国民は「自己責任」を負うわけですが、反対に、それ以上の責任を負わされるべきではありません (もちろん国家や国民への加害を目的に行動が取られた場合は別ですが)。


私は 「少数者の考えを容れられるかどうか」 が社会の成熟度を判断するひとつの目安であると考えています。人は自らの世界観と両立しえない考え方に接した場合、ときにそれを排斥しようとヒステリックな反応を示してしまうものですが、世の中のすべてを一個人の視点でのみ捉えることが、そもそも不可能であることをまずはしっかりと自覚すべきです。

以上、自戒を込めて。


<参考>
人助けが人に助けられて言ったこと chronosphere [Time's Blog] 様
自己責任論の無茶苦茶さ 徒然ぺんぺん草 様
自己責任とイノベーション-NGOやジャーナリストは無限責任なのか?- Blog for Japan 様
イラク人質−自己責任論に対するパウエルの言葉 ONO 様
イラク人質事件・短絡的な「自己責任」論 私的スクラップ帳 様


人気Blogランキング

Posted by mugio at 06:11 PM | Comments (1414) | TrackBack (5077)