閣僚の国民年金未加入、保険料未納付問題

April 29, 2004  [ 国内政治 ]

年金制度については言いたいことが山ほどありますが、ありすぎて簡単にはまとめられそうにありません。そこで今回は、閣僚らの国民年金未加入、保険料未納付に絞って語ります。

1.保険料の未払い

未払い自体を責めるつもりはありません。国民年金の保険料なんて多くの政治家にとっては取るに足らないものでしょう。自己の利益を図るため故意に払わなかった、ということではないと思います。

ただこの問題は我々に多くの「つっこみ所」 を提供してくれました。


2.個人情報だから公表しない

もっとも大きな失態をやらかしたのは官房長官です。保険料の支払状況を問われ「個人情報だから公開する必要はない」と仰いました。しかしそれに納得した国民はいません。

年金問題は現在、国会のみならず広く社会から最大級の関心を集めています。その年金に対して政治家たちが過去どのような態度を取ってきたか、という問題は極めて高い公益性を持つといえます。

もし、これを個人情報として非公開にすることが許されるなら、政治家の活動内容や政治的見解すべてが「個人情報」として秘匿されることになりかねません。

「消費税問題について、私の意見は個人情報だから言えない」
「イラク問題に関しても、個人情報保護の観点から自説を述べるつもりはない」

政治家のそんな間抜け発言がまかり通ることになれば民主主義は終わりです。

消費税やイラク問題は別だろう、という反論があるかもしれませんが、こういった政治的意見は、個人の人格や世界観に直結するという性質から、一般的にはある程度の秘匿性を持つといえます。むしろ、単純な事実に過ぎない「保険料の支払状況」の方がその秘匿性は低いといえるでしょう (国民年金の場合、大金持ちであっても貧乏人であっても保険料は一律ですから、その情報から加入者の経済状況が推測されることはありません。よって、開示されるべき支払状況が「払っていたか、いなかったか」という事実以上の意味を持つことはほぼないといえます)

おそらく官房長官自身も本心から「保険料納付の事実は秘匿されるべき個人情報だ」と考えていたわけではないでしょう。しかし「個人情報だから公表しない」と発言することで国民を煙に巻けると考えたのだとしたら、その感覚はお粗末としかいえません。


3.保険料を払わないことは犯罪なんですか?

これも官房長官の言葉です。年金を払わなかったといっても、別に犯罪ではないだろう。そんなに目くじらを立てて責め立てるのはおかしいのではないか、といった趣旨だったように思います。

しかし、これから保険料の徴収を強化しようと考えている人が 「払わないこと」 にそんなお墨付きを与えてどうするのでしょう?

しかもこの発言は先に述べた「保険料納付状況の秘匿性」を否定する方向に作用します (未納付が犯罪でないのならそれを隠す必要もないため)。その点から考えても官房長官の発言は、やはり不用意なものでした。


4.未加入の事実は知っていた しかし法案を通すために公表時期を延ばした

自分にも未加入時期があったことを公表する場での官房長官の発言。自分たちの不手際が原因で法案を潰してしまっては、その作成に多大な努力を注いでくれた方々に申し訳ない、といった趣旨で発言されたように記憶しています。

この点については同情を覚える部分がないでもありません。屁理屈をこねて公表を先延ばしすればするほど自分自身が傷つくことを官房長官もわかっていたでしょうから。

ただこの発言、結局のところ 「我々は国民のためではなく、霞ヶ関の努力に酬いるために法案を通した」 ってことなんです。これを力強く言い切っちゃう度胸は大したもんだと思います。


5.野党の対応

これも酷かったです。自らの無能を露呈しただけで終わってしまいました。

今回は、まず3閣僚の未払いがマスコミに出たわけですが、これが与党の意図した通りのものであったなら、その筋書きを用意した人はかなり頭がいいと思います。

今回の騒動で結果的に与党は、国民の関心を年金の本質的問題から逸らすことに成功しました。用意されたスキャンダルは誰にとっても分りやすく、その関心を吸い寄せる絶大な威力を持ちながら、他方で (同様に保険料未払い議員を抱える)野党からの責任追及は寄せ付け難く、また選挙において自分たちだけが決定的なダメージを受ける危険性も低い、という極めて効果的な 撒き餌 だったわけです。

実際、与党の法案はすんなりと委員会で可決され、その横で野党は微塵の存在感さえ示すことができませんでした。


6.まとめ

今回の騒動で私が感じたのは以下の2点。

義務を果たさなかった人間に 「そもそも制度が悪いからだ」 という幼稚な言い逃れを許してしまう年金制度は、既に制度として破綻しているということ。

制度を適切に改変すべき義務を負いながらそれを果たすべき能力を持たず、破綻状態をひたすら放置した挙げ句、「制度が悪い、制度が悪い」 と自分たちの責任を制度に転嫁する。そんな行動の 「恥ずかしさ」 を理解できない人間が日本の国政に携わっているということ。 (除:経済財政・金融相)



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Posted by mugio at 04:54 PM | Comments (1755) | TrackBack (372)

アメリカ産牛肉の輸入と狂牛病(BSE)

April 26, 2004  [ 外交問題 ]

1.アメリカのBSE事情

2003年 12月、アメリカでBSE(牛海綿状脳症 = 狂牛病)感染牛が見つかりました。これを受け、アメリカ政府は新たに対策を立てます。

 へたり牛の食用禁止
 生後 30ヶ月以上の牛について脳やせき髄などの特定危険部位の食品化禁止
 検査結果が出るまで食肉を流通過程に乗せない

これに、屠殺時の技術的問題、そして監視体制についての細目が加わるわけですが、正直なところ「えっ それだけ?」という印象です。

現在アメリカで実施されている検査とは 「ヘタリ牛と生後 30ヶ月以上の一部を検査する」 というものなのですが、この曖昧な基準はなんなんでしょうか? 自力歩行できないヘタリ牛をラインから外し、生後 30ヶ月以上の牛を 1頭でも検査しておけば、とりあえず満たされてしまう基準。 ・・・ゆるいです。ゆるすぎます。

またアメリカでは、感染予防の観点から肉骨粉の使用を禁止していますが(というより、この措置は日本より古くからなされています)、この規制についてもこれまで徹底されてきたとは言い難く、実際に規制後の「肉骨粉使用事例」がいくつも確認されています。ひとつ具体例を挙げると、米国最大の肉牛生産地のひとつであるコロラド州では、肉骨粉が規制されて 4年経っても、飼料製造業者の 1/4 以上がそれを知らなかったそうです。

科学の素養がない私が「どのような検査がなされれば牛肉の安全が保証されるのか」という問題を語ることはできませんが、少なくとも 「人間の健康」 という重大な問題に対する国家の態度として考えた場合、アメリカ政府に真摯なものをみとめることはできません。


2.日本に対するアメリカの態度

日本が求める 「全頭検査」 をアメリカ政府はにべもなく拒絶しています。日本は殊勝にも、技術提供や費用の一部負担まで提案しているようですが、効果がありません。

しかも驚くことにアメリカ政府は 「生後 30ヶ月未満の牛の危険部位除去」 まで拒んでいます。生後 30ヶ月未満の牛にBSE発症実例があるにもかかわらず、アメリカはその危険部位を食品として売り続ける、と言うのです。

もちろん、それをアメリカ国内で販売するだけなら文句をつける筋合いでもないのですが、アメリカは「その危険な牛肉を買え」と日本に猛烈な圧力をかけてくるのですから困ってしまいます。

「メキシコは日本よりずっと柔軟だ」なんて婉曲的に圧力をかけるなんてまだかわいらしい方で、今年の 3月には、WTO(世界貿易機関)への提訴までちらつかせはじました。

ちなみに、日本でBSEが確認された際、アメリカは即座に日本からの牛肉輸入を禁止しました。そしてその措置は、日本が全頭検査を実施して後も見直されず、現在に至るまで一切の輸入が禁じられたままです。


3.日本の世論

大雑把に業界の反応をみてみると、小売業界では「アメリカに全頭検査を要求すべき」という意見が、外食業界では「アメリカの提案に則した形で早期に解決すべき」という意見が強いようです。畜産業界が輸入反対であることは言うまでもありません。

国民の意見も多種多様なのでしょうが、私が不思議に思うのは、この問題をあまり重要視していないと思われる人が存外に多いことです。

アメリカでのBSE感染牛確認が報道されて以来、マスコミは連日「牛丼チェーン店の危機」を面白おかしく報道しました。その報道によると「多くの国民が『大好きな牛丼』にしばしの別れを告げるため牛丼屋に殺到した」ということのようですが、この反応が私には理解できません。

世界各地で狂牛病が確認されて後も 『アメリカ政府は不十分な対応しか取ってこなかった』 こと、そしてアメリカ産の牛肉はその解体処理方法の特性から 『本来安全であるはずの部位にも危険部位が混入している危険性がある』 こと、などが報道されているにもかかわらず、人々は 「そんな」 アメリカ産牛肉を体内に取り入れるため、牛丼屋の前に行列まで作ったのです。

巷を賑わせた報道のなかには 「日本政府は我々から牛丼という国民食を奪おうとしている」 とでも言いたげなものまで見られる始末。

かつて国内で狂牛病が騒がれた際には市場から国産牛の全てが消えたのに、今回の騒動のなか、アメリカ産牛肉は当り前のように人々の口の中へと消えたのです。


4.企業の対応

アメリカの狂牛病騒動が報道された際、私は当然のように 「米国産牛肉を在庫している企業はその廃棄を宣言するのだろうな」と考えました。一部の悪徳企業が「これは国産牛です」と嘘をついて売ることはあっても、まさかBSEに侵されているかもしれない牛肉をそのまま売ることはあるまい、と思ったのです。

しかし、周知のとおり、多くの外食産業企業は当り前のようにその在庫を客の口の中に放り込みました。

国内で狂牛病が騒がれたときには「当社で扱う牛肉は 100%アメリカ産だから安全です」とアピールしていた企業が、いざアメリカでBSE感染牛が確認されると、ただ黙々と在庫のアメリカ産牛肉を売りさばき、在庫が切れると日本政府に対して、アメリカ政府の条件を受け入れて一刻も早く輸入を再開するよう迫る。

いままで愛してきた企業(店)のそんな振舞いを見せつけられて、私は心底悲しかったです。

いずれ狂牛病の問題は解決を迎えるでしょう。しかし、いったん生じた企業モラルに対する不信感は決して消えません。


5.私見

やはり、かなりの確度で安全性が保証されない限り、アメリカ産の輸入を再開すべきではないと思います。もし日本政府が中途半端な状態で輸入を再開すれば、少なくとも私は牛肉を食べなくなるでしょう。

この問題について、いまでこそ世論は落ち着いた反応をみせていますが、いったん火が着いたら、それを沈めるのは容易ではありません。下手をすれば国内の畜産業、小売業、そして外食産業が決定的な打撃を受けます。


6.付記

現状において、BSEと人間の健康の因果関係は証明されていません。

しかし疫学的観点から、人間に発症するクロイツフェルト・ヤコブ病との間に何らかの関連性があるのではないかと疑われています。

先日、ニュージャージー州でクロイツフェルト・ヤコブ病にる 13人の死亡が報道されました。 100万人に 1人の割合でしか発症しない病気が極めて限定的な地域で多発した、というだけで十分異常な事態といえますが、さらにこの 13人は同一の競馬場に出入りしていたそうです (競馬場内のレストランが問題視されています)。

同州の上院議員が米疾病対策センターに調査を求めたそうですが、調査が実施される予定はありません。


7.付記 その2

かつて国内で狂牛病が騒がれた際、牛肉が消えたことで生まれた市場の「穴」は多額の税金によって埋められました。そして今まさに、この件が政界汚職問題へと発展しようとしています。



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国家の責任、国民の責任

April 21, 2004  [ 政治一般 ]

イラクでの人質事件を契機に、対国家的な視点で国民の自己責任を議論する風潮が生まれました。この点についてひとこと。

1.国家の役割

まず国家に、国民の生命・財産・自由を守る絶対的な義務があることを忘れてはいけません。中世以前の夜警団、また更に古いところでは先史的な集落などにもその起源をみることのできる「国家」という存在は、そもそも、そこに帰属する人間(国民)を守ることを最大の目的としています。国家が国民を守る義務を放棄することは、その存在根拠を否定することに他なりません。

「自分の判断で危険な地域に赴く国民がどうなろうと国家は無関係だ」

そんな発言をすること自体、国家には許されていないのです。


2.国民全体の利益

先刻「自己責任」という言葉を連発していた政治家たちも、恐らく上記のような意味で発言しているわけではないでしょう。彼らが言いたいのは恐らくこういうことです。

「国家の助言を聞かずに危険な地域に赴いた場合、あなたの安全を保証できません」

どんなに無鉄砲な国民に対しても、国家はその生命を守るためできる限りの努力はしなければなりません。しかし国家は他方で、その無鉄砲な国民のみならず、他の国民を守る義務も負っていますから、1人を救うために他の大勢の国民に過大な不利益を強いるわけにもいかないのです。こうした意識は、危険に直面している国民(救助対象者)に重大な過失がある場合には特に強く働きます。

たとえば、渡航自粛が呼びかけられている戦闘地域に無理やり立ち入った人間1人を救うために、救助隊員の命を犠牲にすることは許されません。また、今回のイラクの例で考えると、もし犯行グループの要求通りに自衛隊を撤退させていたとしたら、多くの国民は「更なる誘拐の頻発」という事態に怯えなければならなかったでしょうし、特に海外で生活している人などは精神的に非常に窮屈な思いを強いられたでしょう。また北朝鮮問題をはじめとする多くの外交課題は頓挫し、日本経済も打撃を受けたはずです。これは避けなければなりませんでした。

自らの意思で危険地域に立ち入った人間がいざ危機に瀕した場合、国家への要求は極めて限定的な範囲でしか認められない。その意味で「自己責任」という言葉が使われる限り、私も賛成です。


3.人質被害者への非難

しかし、今回のように人質被害者へのバッシングが続く事態には否定的な感覚を覚えます。彼らに、そのような非難を受けるまでの「責任」があるとは思えないからです。

この世界にはいろいろな人がいます。政府が行くなと言っても、そこへ行きたいと考える人はいるでしょう。その考え自体を、他人が非難すべきではありません。

もちろん、彼らの行動により国家や他の国民に多大な不利益が及ぶ危険もあるわけですが、それを最低限に押さえるのは国家の役割です。人質となった国民の過失度合い、救出にかかる人的、物的、政治的コスト、そしてなにより他の国民の安全、を較量した上でそれが最善の策であると判断したならば、人質の見殺しを選択することもときに国家の責務となります。

その選択を受け入れなければならない、という意味で一人一人の国民は「自己責任」を負うわけですが、反対に、それ以上の責任を負わされるべきではありません (もちろん国家や国民への加害を目的に行動が取られた場合は別ですが)。


私は 「少数者の考えを容れられるかどうか」 が社会の成熟度を判断するひとつの目安であると考えています。人は自らの世界観と両立しえない考え方に接した場合、ときにそれを排斥しようとヒステリックな反応を示してしまうものですが、世の中のすべてを一個人の視点でのみ捉えることが、そもそも不可能であることをまずはしっかりと自覚すべきです。

以上、自戒を込めて。


<参考>
人助けが人に助けられて言ったこと chronosphere [Time's Blog] 様
自己責任論の無茶苦茶さ 徒然ぺんぺん草 様
自己責任とイノベーション-NGOやジャーナリストは無限責任なのか?- Blog for Japan 様
イラク人質−自己責任論に対するパウエルの言葉 ONO 様
イラク人質事件・短絡的な「自己責任」論 私的スクラップ帳 様


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Posted by mugio at 06:11 PM | Comments (1414) | TrackBack (5077)